ゲームばっかりな日記だったやつ

半分跡地みたいなもの。書くネタは無い。

風化

ずっと気になりつつ、断片的にしか読んでいなかったデビルマン(当然漫画)を、ようやくまともに通しで読んでみた。
感想といえば、有体に言ってしまえば「面白かった」で終わってしまうのだけど(評価について加味した上で選んだ言葉がこれ)、それよりも感じたことがあって書きたくなったので、たまにはここに書いておこうという趣旨でございます。
この時代以前の創作物は、webで引用されたコマやストーリー解説など、あるいは通しで読んだ小説などで時折触れていたので、別段カルチャーショックというほどの衝撃は受けなかったのだが、最も語られるであろう点「過激・残虐描写」について、あるいはそれに誘発されて関連した考え事をするくらいには印象が残った。
まずそれについて、結果的に出てきた言葉が「現代の少年漫画家は大変そう」という少しズレたものだった。少なくとも少年漫画として考えた場合、現代にこの内容・描写を新作として描くことはかなり難しいだろうからで、しかも過激・残虐描写が目的の過激・残虐描写というわけではないので(あえて選んでるだろうとは思うが)、そういった読者に対し印象をつける、背景を刷り込むなどといった効果を生むものとしてインパクトの強い表現を使うことが、現代はなかなかできないというか、手段が限られる訳である。
そういった表現を具体的に見ていくと、「今はタブーとされている」が「当時は(渋い顔こそされ)当然のように使っていた」という言葉が目に付いたりする。序盤の口喧嘩が、一応日常の場面であるので特に印象に強く残る。
それだけでなく、戦争の話など当時は嫌でも体験者から触れることが多かっただろうことは想像に難くなく、「人類が強大な敵を目の当たりにした時、自然に取りうる選択・行動」ということをイメージすれば、恐らく70年代と現代の人々とでは、乖離とは言わないまでも、大分趣向の違うことをイメージするだろうと思う。
現代だと、普通は恐らく、希望を残そうとしたがる向きが強いだろうし、何だかんだで人間社会的な所謂「高度」な社会構造、コミュニケーションの中に組み込まれ、気づいたら敵対しつつも長期間共存しているといった方向に思い至るのではないかと思う。まあ、ここ数年は漫画というと東京喰種やらハンターやらといった辺りをよく読んでいたので、そんな感じがしてしまうだけなのかもしれないが。
つまり魔女狩りだとか、敵を目の前にした時に軍事的に傾倒し、それらを人民みなが疑問を抱かず、あるいは抱いても反対もできず隠れ、歯止めが利かずエスカレートしていくとかいう発想が、ここまで自然と現代の人から出てくるのだろうか。当然出る人も中には居るだろうとは思うが、当時と比べると大分少ないのではないか、という話なわけです。しかもあんなに生々しい描き方で。
こういうことを考えていた結果、子供のころなんかは「そこまで悲惨で衝撃的なことが起きていたのだから、流石に時代が流れても何とかして残るんじゃないの」と朧気ながら呑気に感じていたのだけど、それから30年も経ってみるとやはり「風化って言われてもピンと来なかったけど、本当にするんだな」という感覚のほうが強くなってきた。だって、露骨に先の戦争をモチーフにした描写をされても、よく考えないとピンとこないんだもの。
まあ時代なんてこんなものとして、その上で伝え残すことを考えるべきなのか、日々暮らしているだけでは気づかない変化にもう少し危機感をもつべきなのか。どうするべきなのかは分からないが、時というのは確実に変化を起こすものだと再認識し、確かにそこにあるのに想像以上に遠大で膨大で且つ長大な、手が届かないものの存在を感じ取り、畏れとも恐れともつかない奇妙な気分になったのでした。おわり。