ゲームばっかりな日記だったやつ

半分跡地みたいなもの。書くネタは無い。

年を取る

この日記、公開はしないが一応リンク元を記録するようになっている。それを自分でも検索し、HITした自分の記事をみたり、候補に出てくる他のものの傾向を観たりで、たまに楽しませていただいております。ありがとうございます。
その中でも、自分が「これで検索して来てくれたのか!」と喜ぶ、割と嬉しい(若干聴衆の目を気にして書いた)ワード、記事なんかも中にはあったりする。
で。今日もそんな記事を自分で読み返したわけだけども。・・・何というかね、やっぱり違うなぁと思った。たった3〜4年程度前なのに、何となく論理展開が不親切だったり、若干飛躍したりということが割と多いように見受けられた。大体思い出せるんだけど。
んでもって、その3〜4年前の当時にも、その時から更に3〜4年前の記事を読み直したりしたことも、何回かあった。そしてその時も、「うっわ雑だなぁ」と感じることが多かったように記憶している。流石に、そこまで古いと色々恥ずかしいので、自分でもあまり読みたく無い。3〜4年前の記述でマシなのでは、更にその二倍程度不親切と単純計算されるので、正直怖い。
文章構成それ自体は、当時よりうまくなっているのかなぁ。そういう意味では、こんな駄文でも書く意味があるのかもしれない(と、その当時にも書いていたような記憶はあるが)。ただ最近思うのは、何か、無駄とは言わないまでも、丁寧に書こうとしすぎる所為か、あまりに本文が長くなることが多い。非常に多い。というか、最近の記事は殆どそんな感じだ。
確かに、先述した3〜4年前の時点でも、色々思うところや、志向について考えることがあった。当時にも既に「内容は別として、文章を長く書こうと思えばいくらでも書ける」と自覚しており、それへの「これじゃいけない」感の反発というのがある程度関係している。例えば、「どれだけ段落を単純に短く書けるか」ということや、本文も「意味を保ったまま」短く書けたら面白いのかなぁ、とか。別に、そこまで他者の記事を読むわけでは無いのだけど、たまに「物凄く単純に纏まった短文ブログ」で、しかし有用なものというのがあったりするのを観るにつれ、実験的に取り入れて遊んでみたくなったりするわけですね。
もう長くなってる。いや、もう諦めてるし良いのだけど、元々自分自身が「文章をたくさん読むことにより時間を潰して遊べる」的な要素に偏ってるので、その実「文章を長く丁寧に伸ばし、しかし濃度も濃いままに保つ」というところにどうしても引き寄せられていることが多いわけです。あと、そもそも長文書いてるのが面白い。単純に、自分の感覚や意識・感情を文字として保存する情報が、そりゃ濃く長くすれば勿論多くなるわけであって、後から観た時に、同じ年月の情報でも長時間楽しめるようになる、という意識が強いのかもしれない。悪く言うと貧乏根性みたいな。
自分のできることを、より深く追求すれば良いだけなのかもしれない。まあ、好きにやれば良いのでしょうね。
(追記:同時期の別月を観たら、異常な程に荒んでいて、えもいわれぬ気分になったので、若干問題箇所を修正したりした。やっぱり過去は、特に問題があった頃のプライベートは、観ないほうが良いのかもしれない。)