ゲームばっかりな日記だったやつ

半分跡地みたいなもの。書くネタは無い。

映画観て感じること

うちがスカパー110に入った10年近く前から、家族が映画専門チャンネルで気になった映画を録画し、よく閲覧している。その横で、観ていて興味がある映画をそのまま観ることが多い。
最近観たもので言えば、例えば先述のファイヤーフォックスミシシッピ殺人事件バーニング、ワイルドスピードメガマックス(車さっぱりだが)、トレーニングデイ(二度目)、ブルー 初めての空へ、沈黙の戦艦、などなど。あと家族関係無く、テレビをつけたらやっていた日本映画「煙突の見える場所」という大分古いものを観たり、つまり実際観て興味が湧けば、結構何でも最後まで観る。
そういう映画を観ている所為もあるかどうか分からないが、たまにゲームについて語られる言葉に違和感を感じることがある。それは背景音楽について。
ゲームにしか興味が無いと思われる人の言葉(特に若年層)を見ると、どうも言葉の端々に「どの場面においても、常に音楽が流れているのが当然であり、そうあるべきであり、それが作法・演出技術として至極真っ当であるに決まっている、当たり前」という先入観をもっていると感じることが多い。
つまり端的に言うと、ゲームの「無音シーン」の存在を嗅ぎつけては、「音楽・演出担当は手抜き」と勘違い甚だしいレッテルを貼り、言いがかり難癖を付けて去っていくわけである。特に映画的演出の多い洋ゲーに関しては、鬼の首を取ったかの如く勝ち誇り、これだから海外は云々と意味の分からない言葉を吐き捨てて行った形跡を、割とよく発見する。
「無音」による緊張感と、その中に唯一流れる効果音などの絶大なる効果が、まるで分かっていないのである。音楽についても割とそういう面があるのだが、何というかメリハリ・抑揚とでも言うか、そういう出し入れに関するものにあまりに無頓着で、良いものは常に休みなく・隙間なく埋め尽くすのが最も価値が高いに違いない、単純計算で密度が高いのだから当然だ、というようなニュアンスをたまに感じ取れてしまう。
だからだろうか、子供の小遣いを搾り取る目的でしかない子供向けポップス(おもちゃCD)が、節操無く静と動の入れ替わりに乏しい、勢いやネタ性だけの猪突猛進の音楽ばかりになる。幼稚園小学校のお遊戯レベルのものが、どれだけ氾濫していることか。別にファンアイテムやエンターテイメントとしては良いと思うのだけれど、それを以てやれ音楽の歴史がどうとか、こういう意図が裏にあり社会へのメッセージがどうとか、これみよがしにご高説お垂れになる様を見るのは滑稽でしかない。そこまで考えてねーって、煽ってバカ相手に金儲けしてるだけだよ。音楽とか、最低限の体裁さえ保っていれば関係無い、極論言うと、大量生産して購買層を煽るのがどれだけ上手いか、という部分のみの問題だ。
最近特にそれを感じたのは、SFC時代の名作ホラー、クロックタワーの動画を観ている時だった。無音の緊張感・恐怖感と、その中で急に鳴るSEや物音などに、それだけの破壊力があることを体現しているのである。その世代でない若年層も、「最初は音楽の作曲数を減らすための手抜きかと思ったが、この怖さは無音でないと出せない」と絶賛するような向きも(本当に子供のコメントかは分からんが)観て取ることができた。
無音シーンといえば、何の映画でも絶対にあるんだけれど、映画を殆ど観たことが無かった小学生時代に観た「魔女の宅急便」の無音部分(記憶にあるのは、魔法が使えなくなった後に、知人を訪ねた所?)が何故か強く印象に残っていて、別に緊張するような場面でも無いのに、その「音が無い」というシチュエーションそのものにインパクトがあったのを今でも覚えている。次にどのタイミングで、誰がどういう台詞で口を開けるのか、そして静寂で何を感じ考えるのか。無音というのは、それらを決め付けず押しつけない、想像を促すために非常に効果的な演出であり、実際にその仮想の空間にいる登場人物を追体験できる、数少ない仕掛けであると考える。後にその時どう考え行動したか結論が出るならば、もちろん無音の演出で、ストーリーや心情描写的にも何ら問題は無いはずである。
先入観が怖いという話なのか、ミーハーな若年層ほど安い存在は無いということなのか、色々観て聴いて体験しろということなのか、よく分からない話ではあるのだが、日本のゲームには変な伝統と慣習が根付いてしまっていることだけは確かに感じる。購入者様(あるいは上司様)という存在以外が希薄になると、そういう部分が歪み、あらぬ方向に発展していってしまうという話なのかもしれない。